チョコレートおじさんの見解

チョコレートおじさんは私に対してこう言った.
「俺にはコロナウイルスがインフルエンザとどう違うのかわからない」
正確には一人称は「I」であったが, 口調・話速・アクセント・外見から推測するに, 明らかに「俺」が対訳として最適解であった.
また, 彼は続け様に,
「ヨーロッパでは流行ってない」
とも言った.

 

私は直球の正論に納得してしまった. もしも私がウンパルンパであったら, 例のジェスチャーを反射的にキメていたかもしれない.

私は普段の生活で他人の苦しみを理解することはほとんどない. もちろん, 世の中の人間の多くが苦い思いをしながら精神を溶かしているのは知っている. そうだと思っている. しかし, 私はそれに関与しない.

こういう議論がある. 生まれながらの独裁者は他人が心を持つことを知るのか? という命題である. 他人の痛みは自分の痛み足り得るのか, と置き換えることもできなくはない.

 

一方, 私は生まれながらの被扶養者である. しかし, 一学生の身の上であり, 被支配者の立場, その屈辱を友人と共有出来るということを知っている. しかし, 完全に自分と共通点の認められない人間 (例: ブラジルのカルロス) に心があるとは思えない. 実は私はカルロスとあったことがない. カルロスも私とあったことがない. しかし, 私はブラジルにはカルロスという男性がいるであろうことをなんとなく想像できる. なんの話や.

 

チョコレートおじさんに話を戻そう. 彼の名はグスタフ. 本来は一人称は「我」であるべきだが, 私は会話の中で彼の「I」は「俺」であることを確信した. 話は軽妙で面白く, チョコレート工場勤務であると自称していたので, 私は彼を気に入った. そんな彼に「コロナウイルスのせいで欠航になったフライト」の愚痴を私が打ち明けると, 彼は上述のような簡便な見解を述べた. 特に悪意があったわけではなく, 単純に「インフォ・デミック」と形容される昨今の事情を揶揄しての発言であったと私は推測している. 妙に説得力を感じた. もしかすると彼の「俺は毎日2.5tのチョコレートを作っている」という発言による説得力なのかもしれない. なんの話や.

 

旅行代理会社に私から一言. お互い辛いけど頑張ろうな.

なんの話や.